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冬もすぐそこ◇おすすめ絵本
冬の足音がきこえてきました。
うつくしい秋の風景をおくりながらおおきな絵本のページを
ながめてみませんか。

書評カレンダー、きょうはmayuさんが大好きな絵本を
ご紹介します。





 ジョン・バーニンガム

 『はるなつあきふゆ』


 ほるぷ出版です


ジョン・バーニンガム『はつなつあきふゆ』

寒空の葉っぱたちをみていると、イギリスのジョン・バーニンガムの
絵本を思い出します。

バーニンガムは、『ガンピーさんのふなあそび』『おじいちゃん』
(ともにほるぷ出版)などなど、名前ですぐにわからなくても、
絵を見れば知っている人も多いはずの大活躍の絵本作家
なのですが、この彼の描く樹々がとても美しい。

とりわけ『はるなつあきふゆ』(岸田衿子訳、ほるぷ出版)は、
タイトルの通り、季節をまるごとぎゅっと綴じこめたぜいたくな
一冊です。

子供の顔がすっぽり隠れるくらいの大判サイズなのですが、
よっこらしょっとページをめくると、いきなりびゅーっと風が
ふいてきたり、たき火の煙がただよってきたり。
イギリスの空がそのまま絵本に繋がっているようです。
その空の下で、季節の変化を呼吸する生き物たちの様子が
描かれるのですが(人間ももちろん)、頁の合間に、大きな
カレンダーほどの画面が時々綴じ込まれています。
これを破らないように四方にそーっとひろげると、そこは春の
森だったり、夏の丘だったり。

バーニンガムの絵本は、においや湿気、寒さ暑さも運びます。
牛が現れればムっとくさいし、夏の海岸の日差しにはくらっと
くるし(日焼け止め必須)、秋の夕暮れの陽はやわらかで、
冬の木枯らしはさびしくて、雪はほんとに冷たそう。
そしてこの彼の描く、ざらざらとした秋や冬の空が、
すてきなんですよね。

子供のいる家に遊びに行くときに、クッキーやポッキーの
代わりにこの本を時々抱えてゆきます。子供にだって好みは
あるから気に入ってくれるとはかぎりませんが、頁のなかに
飛び込んで帰ってこない子もたくさんいるようなー。秋から冬は
想像力の季節、みかんにこたつにバーニンガム、心から
おすすめできる1冊です。

            mayu

    ☆☆絵本はこころにおいしいおやつです☆☆
author:茶房 高円寺書林    , 12:23
-,
夏を送る 紅綴堂お勧めの本
台風が秋の気配をつれてきてくれました。

お気に入りの本を紹介していただく”書評カレンダー”
きょうは紅綴堂内田由紀子さんが案内してくださいます。



    安房直子 「南の島の魔法の話」
 
私がこの本に出会ったのは高校生のときでした。
ピンク色の小さな文庫本を何気なく読み始めて、一瞬で物語のなかに
はいりました。
不思議な世界にすっと入り込み、目の前に美しい色が広がりました。
物語の色彩があふれだし、いい匂いの風をかんじました。
夏の夜、春の夕暮れ、冬の青空、ほうれん草畑の夕日‥。
本を読んでそんな体験をしたのは初めてのこと、
とてもびっくりしたのを覚えています。
この文庫におさめられた12の物語ひとつひとつが色や匂いを持ち
くっきりと別の世界をつくりだしていたのです。
 
1番目のお話、『鳥』では、
夏の夕日のなか、耳のお医者さんのもとに少女がかけこんできます。
耳の中に大変なものが飛び込んだからとってほしいとせきたてます
少女はいいます、聞いてしまったひみつを、耳の中からとりだしてほしいと。
少女の耳に飛び込んだひみつは、大好きな少年が実は鳥だったということ。
お医者さんは少女に話を聞き始めます‥。
 
貧しい海女の息子と、貸しボート屋の少女の物語は、
愛することの恐さと美しさ、かなしみとよろこびを伝えます。
そして、物語の終わりでお医者さんと読み手に驚きとともに伝えられる、
もうひとつのやさしいひみつは、おわりかける夏の夕暮れを背景に心に
せまってくるものでした。


 
安房直子さんは童話作家ですが、
彼女の書く物語は子どもを甘くてやさしい世界に囲い込んでおくだけの
ものではありませんでした。
やさしいだけのメルヘンでもなく、つらい現実を直球で突きつけるような
話でもなく、現実と物語の世界を絶妙のバランスで行き来します。
 
丁寧で美しい描写と、人間の真実を見据える視線の強さが、
物語を際立たせているように思えます。
 
夏の終わりに、そっと手にとってほしい1冊です。
author:茶房 高円寺書林    , 11:03
-,
遅れてきた六月
◇順繰りに書評を、ということでしたが六月ははやくもすぎています。
 ぜひ六月は私に!とライターの渡邉裕之さんからいただいていた
 原稿をここにご紹介しました。
 
==============
『弥勒』  稲垣足穂

六月の書評カレンダーに原稿を書くという約束を半年前にしたこと
六月が終る一日前に思い出しました。それであわてて原稿を
書きます。
「稲垣足穂の『弥勒』について書きますよ」といったのは、この
小説に「六月」という言葉が印象的に出てくるからでした。
二〇〇九年六月がもう過ぎ去ってしまうこの時に、『弥勒』の中の
「儚き六月」について語りましょう。



『弥勒』は、二〇〇〇年生まれの極東の哲人·稲垣足穂の半自伝的
小説。
神戸の少年時代のファンタジックな日常と思索が書かれた第一部と
東京に出てきた足穂の極貧生活と哲学が開陳される第二部のテクス
によって構成されています。
「六月」は、第一部でこんな風に現れ、そして一瞬のうちに消えて
しまいます。
「ある昼休みの教室の黒板に、Iは『六月の夜の都会の空』という
九字を走り書きして、直ちに消してしまった。
いや何でもありゃしない』と彼は甲高い声で江美留に言った。
『–––––でも、ちょっといい感じがしないかい?』
なるほど! 六月の夜の都会の空」

足穂の著作に登場する物事·人の特徴は、突然現れ「なるほど!」
思った瞬間消失していること。「!」マークだけが虚空に永遠に
残されてしまうのです。
主人公、江美留の教室の後ろに坐っているIは肋膜のわずらいの
ために休校したために同級生となった少年。足穂の物語には、
哲学し詩作する少年たちが多数登場しますが、Iもその一人です。
この少年詩人が書いた「六月」もさっと黒板消しで消されてしまう
のですが、江美留の頭の中で、彼が抱えていた「虚無主義者が
見たる夜の都会」の光景と重なって永遠に残ってしまうのでした。
しかし、この永遠の光景はいったい何になるというのでしょう!

この問題は多くの者が抱えています。たとえば少年時代の頃の
思い出話でよく出てくるのが「月極駐車場」のこと。あの言葉がよく
わからなくて、さまざまな解釈をしたという笑い話。友人Aは
「月極」という駐車場を管理する巨大な企業を想像し、友人Bは、
その看板を見る度に、月の極地の駐車場に停められたキャデラックを
見ていたといいます。この友人たちの巨大企業の社屋、T·REXの
音楽にぴったりあいそうな月面のキャデラックの映像たちは、
こうしてそれぞれの頭に永遠に残ってしまうのはいいのですが、
いったいそんなもの何になるというのでしょう? 

その答えが、第二部で描かれる極貧生活の中に現れます。少年少女
たちの「儚き永遠のイメージ」が、どうして「現実生活まで立ち返って
いかなければならぬ」かが、語られるのです。
「月極駐車場」、「おこと教室」、「ワリチョー」その他、さまざまな
看板文字におののいた元少年少女諸君、お読みなさい『弥勒』を。

さて、なぜ「六月」が少年たちに強い印象を残したのか。それは、
夏というもっとも鮮烈で儚い季節が、その手前の夕暮れ時などに
純度の高い形で立ち現れるからではないでしょうか。ごめんなさい、
六月も終ります。夏がやってきます!

(『弥勒』が収録されている単行本は多数ありますが、
足穂入門者は、新潮文庫の『一千一秒物語』をどうぞ)
author:茶房 高円寺書林    , 14:02
-,
ものがたりの魅力☆『猫を抱いて象と泳ぐ』 
4月の書評カレンダーは編集志望の小津あきさんが担当します。
だいすきな作家小川洋子さんの新刊より。
画像提供も小津さんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


☆『猫を抱いて象と泳ぐ』 小川洋子 文藝春秋社

会話が極端にすくない小説だ。どこの国の物語かもわからない。
登場人物はだれも、現実的な名前では呼ばれない。

成長してからチェスの名人‘リトル・アリョーヒン’と呼ばれることになる少年は、
上下が癒着した唇をもって生まれた。口は手術で開けられ脛の皮膚が
移植されたが、それは生涯「閉じられたほうが自然な口」なのだった。
祖父母と住み、もともと無口な祖父とは必要十分な少しの会話。
口に生えた産毛の、微かな傾き具合で彼の心のうちを察知できた祖母の
前では一段と無口になり、生涯に出会う数々のチェスの相手とは、言葉でなく、
チェスの勝負で語り合った。彼は言葉以外で多くを伝える手段を持っていた。

もっとも彼は、相手と体をつき合わせて向かい合い、指すチェスをしたことがない。
あるときまではテーブルチェス盤の下に潜り込み、相手の置く駒の音で判断を
しながらチェスをした。腕を買われて入った非公式なチェスクラブ「海底チェス
倶楽部」では、からくり人形の中に小さく折りたたまれるようにして入り、
人形として対戦相手に向かい合った。チェスを指す以外では、人形の中に
隠れるときと同じく、人々の視界のはずれを好み、自分の痕跡を消すように
して生きた。

ただひとりだけ、リトル・アリョーヒンが言葉と身体とで「触れたい」と思いを
募らせるようになった「ミイラ」と呼ばれる少女がいた。「海底チェス倶楽部」
でリトル・アリョーヒンのチェスの棋譜を書き、助手となった彼女は、あだ名の
通りの痩せっぽちだった。しかし身体全体で彼に向き合おうとした。言葉をかけ、
彼を揺さぶった。そしてリトル・アリョーヒンは物語の終盤、こう決意する。
「今度は本当の、文字の手紙を書こう。最後の夜、せっかくミイラが会いに来て
くれたのに人形の外へ出てゆく勇気がなかったこと……何もかも全部について、
長い手紙を書く」。しかし彼の唇は閉じたまま終わるのだ。 

     

私はこんなふうに読んだ。別の人はまったく違った印象を持つかもしれない。
ただ、小説の底にはグレーで静かな沈黙の塊がある。動かすことが出来ない、
嚥下できない塊。そういう感覚は共有できる気がする。

動かなくなったバス。デパートの屋上。海底チェス倶楽部。テーブルチェス盤の下。
からくり人形の中。山の中腹。老人マンション。動きの取れないそんな場所に
閉じ込められたこの物語の人々は、俺はここにいるぞと決して叫ばず、自由な
フリもせず、その人そのものとして、世界と向かい合っていた。
「表舞台」の日常は、「フリ」の連続だ。「口のある者が口を開けば自分のこと
ばかり。自分、自分、自分。一番大事なのはいつだって自分だ。しかしチェスに
自分など必要ないのだよ。チェス盤に現れ出ることは、人間の言葉では説明
不可能。愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書き
するようなものだ」と、チェス指しの老人は言った。しかし彼もまた、一旦夜の
チェスの対戦を終え、日中を過ごす老人専用マンションではでたらめを言い、
喋りっぱなし。けれど、それが「表舞台」を生きる普通の人だ。
「余計なものは何も入ってこず、何も出てゆかず、ただ汚れの無いしんとした
静寂をたたえた唇」を持ってはいないから、余計なものは取り込むし、出さなくて
いいものまで出してしまう。

それでも、チェス盤の前に座らされたらチェスをしなければならない。生身の
身体で相手に向かい合うよりほかにない。チェスで試されるほかにない。
そういう「緊張」を投げつけるような小説。
最初の数ページを読み、ここから始まる物語にこんなに期待したのは、
久しぶりだった。

(小津あき)
author:茶房 高円寺書林    , 11:45
-,
『プラハの春』  3月の書評は出版娘
三寒四温、雪の予報もある雛の節句。
春はいつも待ち焦がれるもの、そしてやがて訪れてくれるもの。
すべての人びとの上に。

書評カレンダー、3月をお送りします。

      ============


『プラハの春』

春江一也 著 (集英社文庫上・下)


  チェコ共和国と、スロバキア共和国。
  かつての「チェコスロバキア」は、分離して16年目を迎えています。
四方を強国に囲まれた構造ゆえ、搾取と惜別の歴史をたくさん抱えた
国です。
他国どうしの双六ゲームで、昨日までこっちの陣地と思いきや
明日からはあっちのモノになったり、関係ない戦争の舞台になって
しまったり。
でも民は賢くたくましく、心の自由はいつでも棄てません。
人民を置いてきぼりにしてきた国家の政治を皮肉る「アネクドート
(小噺)」が豊富なのも、ひとびとの文化的意識がいかに高いかを
あらわしています。

そんな素敵な人びとの賢明さと情熱を味わうことができるのが
プラハの春』。




『プラハの春』は、1960年代にチェコスロバキア日本国大使館に
在勤していた著者が、実体験をもとに書いた小説です。
話のはじまりは、1967年3月。
日本大使館員・堀江と、東ドイツの反体制活動家・カテリーナが
出会い、二人はどうしようもなく惹かれあっていきます。真実を
ことごとく盛り込んだ歴史的背景を舞台に、二人の愛は権力と
歴史の流れに翻弄されます。
カギとなるのはタイトルと同名の〈プラハの春〉。チェコスロバキアの
政治運動で、当時の監視的・党一元主義的な社会主義を批判し
「人間の顔をした社会主義」をめざし改革を行おうとしたものです。
当時の首相・ドゥプチェクが立役者となった運動でしたが、ソ連に
潰されてしまいます。
理想を掲げた運動が権力に潰された悲しい話ではあるのですが、
攻撃を受けたプラハの人々の冷静な行動に溢れる知恵と勇気が、
たいへん素晴らしいのです。
理不尽な力に翻弄されてきた人々の胸にともる誇りは、植民地に
なったことすらない島国日本では到底お目にかかれないもの。
チェコに、そして日本にもっと興味を持つために欠かせない一冊です。



『プラハの春』は外交官の執筆なので内部事情にかなり
食い込んでいますが、市民スピンオフのように読めるのが
『オリガ・モリソヴナの反語法』(米原万里・集英社文庫)。
こちらも著者の体験を元にしたフィクションで、当時のチェコ事情の
暗さにもかかわらず、抱腹絶倒間違いなしの一冊です。


小説中でも実際にも一旦は潰された〈プラハの春〉ですが、ソ連解体時に
好機を得て、スムーズな民主化(ビロード革命)につながる基盤と
なります。

春は、また訪れる。くりかえしくりかえし、訪れるのです。



ところでチェコの標語「真実は勝つ」。
「真実」―チェコ語で「Pravda」―はロシア語でも同じ読みで「真実」と
いう意味。そして、チェコ迫害時代に虚実入り混じっていると悪評高かった
ソ連の新聞の名前です(今もあります)。
「真実は勝つ」――国の標語自体が圧力政治への皮肉だとしたら、
これほどウィットに富んだ国は、ないでしょうね。

          出版娘 ぎんこ
author:茶房 高円寺書林    , 14:30
-,
2月22日◇きょうは猫の日 書評カレンダー
 ----- 猫、人生への客人 -----

『黒ねこのおきゃくさま』

 ルース・エインズワース著  荒このみ訳
  山内ふじ江 絵 (福音館書店)
 


猫は、ほとんどの場合、人より先に死んでしまう。

猫は生命のサイクルが人より随分短いから、出会ったときから
別れは不可避なものであり、その意味で、全ての猫は人の前に
ある日姿を現し、やがては去っていく「客人」のような存在で
あると言える。

猫を愛するほど、当然ながら猫が去ったときの悲しみは深い。

ペットロス」による精神的なダメージから立ち直れず、
こんなにつらい思いをするのなら、二度と猫と共に暮らすのは
嫌だ」と言う人もいる。

しかし私には、それはあまりに淋しい考え方に思える。

人生のいっときを共に過ごした客人、そのかけがえのない
思い出まで、失われてしまっているように感じるからだ。

猫は逝ってしまう。でもそのことによって、猫と共に
暮らした幸福な日々までが喪われるわけではない。
物質としての猫の存在はこの世になくなっても、猫の記憶は
胸に残り、その丸く温かな体を懐に抱いているかのように、
心の内を温める、永遠に消えない「猫あんか」になる。
 

くろねこ    

                (photo bon-neko)

『黒ねこのおきゃくさま』はまさしくそういう物語だ。

20世紀前半のイギリスの児童文学者ルース・エインズワースの
作品で、もともと、「シェルオーバー」という名の亀が不思議な
物語を語って聞かせるという形式の物語集、『かめのシェル
オーバーのお話』で、最初に語られる物語である。
それを独立させ、絵本としたものだ。

雪の夜、餓えた黒猫が貧しい老人の家を訪れ、老人は、
自らも空腹なのに猫に食物を与え、一晩の温かな寝床を与える。
すると翌朝猫が……というようなストーリーである。
餓えた来訪者への食物の提供、姿を変えた来訪神、動物への
親切に対する報恩などといった伝承説話の型やモティーフ
備えてはいるが、随所に際立っているのは「猫と共に居る
ことの喜び」だ。常に人間のもとから去ってしまい、別れの
悲しみを必ずもたらすことを知っていながら、なぜ人は猫を
飼うのか、そのひとつの答えを描いているように思える。

特に猫を喪った悲しみに沈む方に、ぜひ最後のページを
読んで欲しいと思う。
 

そして何しろ、手練の“猫描き”山内ふじ江による
「黒ねこ」の絵が文句なし!(だってうちの黒猫に
そっくりだし♪)なのである。
 


●おまけでもう1冊のご紹介
  『ポテト・スープが大好きな猫』

(テリー・ファリッシュ著・村上春樹訳・
バリー・ルート絵/講談社文庫)
 

『黒ねこのおきゃくさま』同様、老人と猫の話で、どちらも、
べたべた優しくしすぎないおじいさんと雌猫の距離感がいい。
2005年に大判の絵本として出版されたのが、昨年12月に
文庫で登場している。

                      - 蔦谷香理 -

author:茶房 高円寺書林    , 23:29
-,
新コラム 書評カレンダー 1月
茶房  高円寺書林で出会うかたはみな本が好きでたまらない。
本の話になるともうどこまでも広がってゆく。
それならば、とこのちいさなコラムで順に書評を書こうという
ことになった。

その月にちなんだ、ということで選んだ本を取り上げて
なるべくいまでも手に入るものをご紹介するようにしたい。

書評子はかんたんに末尾に自己紹介があるが、読者の
みなさまもいっしょに楽しんでいただければ幸いである。

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    ------  春を聴く ------
 
宮城道雄  『春の海』  岩波文庫
 
作曲家宮城道雄の名を知らなくても、その雅で華やいだ箏の
音を聴いてまず知らないひとはない名曲がある。
その「春の海」を題にとった随筆集があって、”物売りの声”
からはじまるのだけれど、まるで芝居の情景が浮かぶようで
ぐんぐんと引き込まれてしまう。
たとえば熊の胆売りは熊の子守唄とでもいうような節で売り
歩いたらしく「もし熊が生きていたら、きっとあの声で眠ら
されると思う」というぐあいだ。
 
文字を目で追っているつもりが、いつの間にかその語りに
すっかり乗せられて心地よく遊んでいる気持ちになる。
 
9歳になる前に光を失い、箏などの邦楽と出会うことから
その才能が花開くのだが、レコードを通して西洋音楽に
親しみ、ジャズにも魅かれるしなやかさは守旧派から歓迎
されるばかりではなかったようだ。
かれの新しい箏曲にそれらがみな実を結び、さらに各国の
アーティストと交流が深まる。
外地(朝鮮半島)ではギリシャ人のレコード屋の店先で夏も
冬も佇んで流れてくる音楽を聴くのだけれど、閉じられた
凍てつくガラス戸に氷が張る寒さにさすがの店主も中へ
入れて聞かせてくれる段はおもわず拍手したくなる。
そのガラスに張った氷をかれは指先の凹凸で知るのである。

本編は1935年〜56年と戦前戦後をはさんだ随筆になって
いて、文庫本の巻末に林芙美子との対談が収録されている。
才気あふれる聞き手が小気味よくはなしを聞き出すので
かれもユーモアたっぷりの話し振りで応える。
来日したヘレン・ケラーにあった印象を”信念があるからですね
明るいのは”というところまではよかったものの、それに続いて
”この間中継で聞きましたヒトラーという人はやはり声がちゃんと
具わっておりますね”さらに”ムソリーニの声も、この間中継で
聴きましたけれど、やはりそんなに怖いような声じゃありません
むしろ優しい声です”ここでおもわず記録をみると1938年。
”時局”というのはこういうことか、とおもう。

吹く風や鳥の声、衣擦れの音から風景を読み取ったといわれる
天才にしても時の独裁者に好印象を抱いていたとは。
では、そのとき私だったら、ともおもう。
見分けたり、聞き分けたりすることが果たしてできただろうか。

喜びのときも、悲しみのときも箏とともに生きたひとりの芸術家の
魂に触れて、あたらしい年の初めに光が差したように感じられた。
春の海、という題名につられて手にした本だったけれど、このような
名作が手軽に文庫で読めるのはなんとありがたいことだろう。


はる

 
 Pitschi☆

第1回は編集部を代表してピッチが初仕事をやってくれました。


■文中に「箏」と表記されていますが「琴」との違いは
→こちらをごらんください。

author:茶房 高円寺書林    , 12:49
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