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6月の記事で関心の高かったもの
6月になってもアクセスが多かったのが
シベリア抑留者救済法案、参院を通過  でした。

=6月16日夕の衆議院本会議にて民主・社民・共産(ほかは
本会議欠席)全会一致で可決・成立した。

  

当時少年兵であった元兵士のかたもいま82歳。
無念のうちに鬼籍に入られた方が多くなっているのが現実。
その当事者である猪熊さんのメッセージをご紹介いたします。

+++++++++++++

みなさん 猪熊得郎です。

シベリア特措法」成立に思う

シベリア特措法」が16日夜成立した。感無量である。

舞鶴港に帰国した時、祖国日本の美しさに涙した感激を
忘れられない。

しかし、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」の美名のもと、「聖戦」に
命を捧げよと、私たち兵士を送り出した祖国日本の冷酷な仕打ちを、
深く胸に刻みつけられた65年であった。

地獄の淵を這いずり、やっと祖国に辿り着いたシベリア抑留元兵士
たちは、「シベリア帰り」というただそれだけで日本社会から阻害され、
職を求め、糧を得るのに必死の十数年であった。

私は中学3年15歳で、父の猛烈な反対を押し切り少年兵を志願した。
敗戦を関東軍兵士として中国東北部、旧満州、公主嶺飛行場で迎え、
ソ連に強制抑留、そして昭和22年12月、シベリアから祖国の土を
踏んだのは19歳の年である。

私の故郷東京の家は空襲で跡形もなく、私の帰国を誰よりも喜ぶはずの
父は、度重なる空襲を生き延びつつも交通事故で前年になくなっていた。

2歳上の兄は、人間魚雷回天搭乗員として、沖縄出撃途中戦死、
18歳であった。
幸い3人の兄姉が肩を寄せ合い私の帰国を喜んでくれた。

母校の中学を訪れた。丁度、学制が、6.3.3.4制に変換するとき
であった。
「復学」のためである。新制度の高校1年進学を申し出た。応接したのは
校長で、私が少年兵を志願したとき、教頭として激励の挨拶をした。
「祖国日本の難局に,学業途中で戦場に赴く、まさに日本男児の鏡、
我が校の名誉この上ない」と万歳3唱の音頭を取ったのが
この人であった。

懐かしさと期待に胸を膨らませた私に彼はこう言った。
「旧制中学4年終了の免状を上げるから他所へ行って下さい。残った君の
級友たちも学徒動員で工場で働き勉強などしていなかった。当時の学制で、
旧制中学4年終了卒業となったのです」「シベリア帰りとか、元少年兵など
云わない方が良いですよ」

「生きて還って良かった」などの喜びの言葉など一言もなかった。
迷惑げの「厄介払い」に、悲しさと口惜しさで胸は張り裂けるばかりであった。
あの時の惨めさ、空しさ、悲しさ、口惜しさは生涯消え去ることはない。

15歳から19歳の経歴を作り,職を求め、時には、「経歴詐称」で首切りの
口実になる。何のための「青春」だったのだろうか。

私の軍人恩給は、「一時恩給」1万2千5百円、1回きり。5年間の軍歴は
「公務員」でないから「年金」加算一切なし。そうしてシベリア抑留強制労働の
労賃を支払えの要求には、戦後処理は終わったとの政府の対応。
この65年でした。

日本政府から天皇のため「国体護持」を条件に労働力としてお使い下さいと
「棄兵棄民政策」で差し出され、国際法を無視したソ連スターリンによって、
不法に「拉致」され、シベリアに抑留された関東軍兵士60万人。

零下20〜30度の酷寒、薄ぺらな黒パン一切れ、薄味の塩スープの食事の
空腹、靴を削りかみしめ耐えた飢え、問答無用、前代未聞の奴隷労働。
過酷な条件を加重する旧軍の階級支配の圧政に兵士の命を守るための
前期民主運動(昭和22年まで)。階級章を獲ることは、ソ連軍管理の
集団組織を破壊するものだとソ連軍からの弾圧、昭和23年頃からの
ソ連盲従の後期民主運動に日本人同士の対立と抗争。シベリアの凍土に
眠る6万人の元兵士たち。

給付金は25万円から150万円ということだが、圧倒的部分は35〜
25万円。
青春を奪われた数十ヶ月に比べればほんの僅か。

しかし金額の問題ではない。不十分にせよ政府が謝ったのだ。

私たち抑留者は、長年の間だ、労働の対価が支払われなかったとして、
補償を求めてきた。しかし、日本政府はこれまで「戦後処理は終わった」と
応じてこなかった。 

法案は議員立法。条文に「補償」という文言は盛り込まれなかったが、
提案した佐藤泰介・参院総務委員長は国会での趣旨説明で

「長期間にわたる強制労働にもかかわらず、その対価が支払われていない。
問題解決に長い歳月がかかったことを社会全体として反省し、その労苦を
慰謝することが必要だ」と述べ、給付金には補償・謝罪の趣旨が含まれて
いることを明言した。

のどに刺さった小骨が取れたようだ。
しかし、課題は多く残っている。
シベリア
抑留の真相解明だ。何故こんな事が起こったのか。
そして、実態を明らかにする。
一体何人が抑留され、何人が亡くなったのか。
遺骨の収集を早く。
韓国、朝鮮、台湾、中国もと抑留者への補償。
次世代への継承

等々である。

私も長生きして、痛苦の体験を語り継ぎ多少とも貢献できればと
願っている。

            猪熊得郎

   +++   +++   +++   +++


   (石原吉郎 望郷と海 ちくま学芸文庫)

国、あるいは祖国などと呼びなれない現代の私たち。
極限に追い詰められているとはいいがたいというのに
絶望という衣をうっかりと羽織ってしまいそうになる。

自分の足で立つこと。
言葉をつむぐこと。
文学やアートはその拠り所であってほしい。
そのためにも足もとをさらに深く掘り下げて、固めることだ。
author:信愛書店 en=gawa, 17:07
-,
シベリア抑留者救済法案、参院を通過 2010/5/21 10:53
シベリア抑留経験者の猪熊得郎さんが戦場体験放映保存の会の
MLで速報を流してくださいました。

以下、法案成立直後のweb刊日経新聞からの引用です;

 シベリア抑留者救済法案、参院を通過 

 戦後、旧ソ連圏で強制労働させられたシベリア抑留者を救済する
特別措置法案が21日午前の参院本会議で、全会一致で可決され、
衆院に送付される。同法案 は参院先議の議員立法。
与野党で合意しているため、今国会で成立する見通しだ。
法案は抑留期間に応じ抑留者1人あたり25万〜150万円の特別給付金を
支給するのが柱。財源は平和祈念事業特別基金を活用する。

web毎日jpではつぎのように残された課題を指摘しています。

シベリア抑留:

半島出身者、癒えぬ極寒の傷 急がれる名誉回復・補償


日韓併合100年を迎えた今も、日韓の間には多くの課題が残る。
解決が急がれる問題の一つが、第二次世界大戦に巻き込まれ、今も心や体に
残った傷跡に苦し む朝鮮半島出身の人々の名誉回復や補償問題だ。
戦後、日本人兵士とともに酷寒のシベリアに抑留された朝鮮半島出身者たちも
高齢化が進んでおり、解決のため の時間はわずかしか残っていない。
                     (一部引用)
【ソウル大澤文護】

  

もっともたいせつなもの、あなたのいのち、そして家族を
国のためにと捧げることを強いられた時代がありました。

それは人として、国として間違っていたということを長いこと
認めてこなかったのが日本の政治の実情であり、その政治家を
選び続けてきた多くの有権者でした。

いのちを捧げるほどの高邁な、正義に満ちたものではなかった。
昭和20年8月15日までのこの国のたどった歴史を詳細に検証し
事実を明らかにすることで歴史の逆行を止めるしかないのです。

国家の(それを天皇または国体と言い換えていたわけですが)
名でいのちを粗末に消費する戦争を始めておきながら、崩壊後は
結果的にだれも責任を取ろうとしなかった、それがこの国の
すがたでした。
被害者感情で満たされた多くの市民たちもふくめて。

それから65年。
隠された情報が多いために実態の検証が難しかった現状に
やっとちいさな風穴が開いた、といえそうです。

平均年齢88歳、というシベリア抑留経験者のかたも、じつは
ほんとうのことを語り始めるのは70歳、80歳を過ぎてから
やっと決心がついたので、といわれます。
人間が人間でなくなる、それが殺し合いの戦場。
人には決して言いたくなかった、というつらい思い出を語って
くださる元日本兵のみなさまの貴重なことばを受け止めるのは
それこそが国民の義務である、といわねばなりません。

情報公開、そして事実の検証をキーワードにこの国の過去と
現在をしっかり見つめるしかない、その先にあるものはばら色の
未来ではないかもしれないけれど、残されているちいさな
光を見出すためにはもう道に迷ってはいられないのです。

この法案成立は国の基本的な姿勢をあらわすものとしてたいへん
重要なものだというのに、ざんねんがらGoogleニュースでは
まったくトピックとしての位置づけが低く、トップニュースの大きな
見出しにはなっていません。(12:00現在)
ただ検索すれば多数の速報が見られるので、それもまた読者の
裁量にかかっているというべきでしょう。

いい時代になった、と言えそうです。
author:信愛書店 en=gawa, 12:22
-,
トランスビューのDVD『沈黙を破る』&『冬の兵士 part 供
田保寿一監督の『冬の兵士 part 供が完成に近づいていると
いうことです。

試写版をこれまで数回見せていただきました。
内容はIVAW=反戦イラク帰還兵の会のメンバー、アダムとリック、
2名をアメリカより招請して証言を聞き、意見交換をした昨年8月の
各地での市民集会の記録です。

アメリカの20代のやんちゃな若者が正義感にもえて、平和のために
役立ちたいと真剣に考えて赴いたところ、そこは復興の現場ではなく
無法地帯というべき戦場でありました。

『戦場』、それは私たちにとって物語の中でしか出会うことがない
極限の状況。
その苦しみを受け止め、共感することが出来るのは実際の戦場を
命がけで生き抜いた元日本兵の方しかないのではないか。

はたしてそのとおりでした。
平和を希求する帰還兵たちをもっとも理解し、ともに進もうと明言される
元日本兵谷口さんの貴重なインタビューが収録されています。

最前線で命を失うのはつねに下級兵士、その構図は国や時代を
越えてかわりません。
ひとりひとりの真剣な言葉をていねいに掬い取ることで私たちは
考えを深め、判断を迫られます。
あなたは、どうしますか?と。


        

水槽では太ったメダカたちが日なたぼっこをしています。
ニオイゼラニュームが風に揺れているのをみてふとある場面を
思い出しました。
  
トランスビューより発売されたドキュメンタリーDVDです。
土井敏邦監督の『沈黙を破る』

パレスチナと長年にわたって戦火を交えてきたイスラエル兵たちの
真実の証言記録です。

心身を傷つけられて苦しむのはここでも弱い市民たちと
やはり下級兵士たちであることは変わりません。



弱音を吐く、愛国的でない、そういった誹謗中傷に耐えながら
イスラエル兵士たちも立ち上がっている、貴重な記録映像です。
人間性を失わなければ戦争は出来ない、それを口にするのは
よほど勇気のいることだ、という事実が重く迫ります。

左の本は岩波書店刊
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』

解決のためのもうひとつの道、それを実践しているのが中村哲さんの
ペシャワール会の活動です。
澤地久枝さんが聞き役となっているこの本、地下水のように
しずかな流れとなって、手にした多くの読者のこころを潤しています。

乾燥に強く、荒地でもけなげに育つニオイゼラニュームの花、それは
パレスチナの人々の暮らしに身近なもののようです。

大切な家族を殺されて、悲しみに沈む女たちがさびしい墓地で
泣きながら祈りを捧げている場面があります。
満開のニオイゼラニュームの花が墓石を包み込むように
やさしく揺れていました。
author:信愛書店 en=gawa, 13:07
-,
戦場体験収録会;尾形憲さんのおはなし
まま(せんむ)がいそがしくでかけました。
だいじなおはなしをきかせていただく、って。

      

ままのおとうさんもむかしせんそうへいったんだそうです。
がくしゃのおしごとだったんだけど、せんそうのはなしになると
かんしゃくをおこしたみたいになって、てんのうのわるくちばかり
いってたんだって。
しょうわてんのうよりさきにはしねない、っていったそうです。
でもままのおとうさん、hanaのおじいちゃんはだんだんよわって
ねたきりになったときになってもまだしんだしょうわてんのうを
うらんでたのでままがいったんだって。
『天皇も本当のことを知らされてなかったんだし、周りのヒトが
みんなでいいように仕向けた面もあるのだから、だれでもあの
立場に置かれたら似たような結果になったのではないかしら?』
そしたらおじいちゃんがいったんだそうです。
『まあ、そうだな』
うらみつらみをのこしてるとさんずのかわをわたれないんじゃ
ないかってままがしんぱいしたんだそうです。
hanaもおよげないからさんずのかわがしんぱいになってきました。

ままがきいたおはなしというのはやはりせんそうへいってた
おじいさんのおはなし。



予科士官学校、航空士官学校をでて19歳でジャワ航空通信隊。
旧制中学時代の猛勉強をうかがわせる変色したノートを
見せてくださる尾形憲さん。
500年の曜日を割り出せるグレゴリアン暦の数列を写したものや
楽譜、幾何学の図形など勉強が好きでたまらなかった少年時代を
なつかしく思い出しながら説明してくださいました。



お得意の数学パズルを持ち出して聞き手のボランティアを
びっくりさせてうれしそうな尾形さん。
すっかり先生の顔になっていました。
言葉遊びや年季の入っただじゃれに場が和みます。



それほど危ない思いをしていない、といわれる尾形さんは通信隊に
所属していたので本部とともに各地を転戦、ガダルカナル、レイテ
台湾へと。
1944年に特攻が始まると飛び立つ若者がみな通信兵である
尾形さんのもとへ出発のあいさつをしにきたそうです。
「行ってまいります!」
同期の見知った顔が来る。
行ってまた帰ってこいよ、と言えない片道飛行。
言葉が詰まる。
けれどそれも余り多く続くとおそろしいことになれてしまう。

  「尾形憲氏の意見陳述書からの抜粋」 
    1923年生まれ、
軍国主義教育を受けて陸軍士官学校に進みました。
航空の同期生はおおかた特攻で20歳前後の命をなくしました。
歩兵や砲兵などの地上の兵種も、南方や大陸の前線で戦死、
ならまだしも、餓死です。
この戦争で死んだ軍人・軍属230万人のうち、その6割が餓死でした。

同期生の一人は特攻として出撃しました。
ところが、すでに敵艦に突入したものとして、2階級特別進級、
天皇に上奏されてい ました。
生きていた英霊があってはならないと、彼はマラリアの病室から
参謀に引きずり出され、単機出撃させられました。
「処刑飛行」 です。
操縦を誤って草原に突っ込んでしまいましたが、奇跡的に
かすり傷一つ負いませんでした。
航空軍司令官の冨永恭次はいつも特攻を送り出す とき、
お前たちだけ行かせはしない。最後には自分も参謀長の
操縦する飛行機に乗って、お前たちの後に続く」と、言って
いながら米軍が間近かに上陸すると、真っ 先に逃げ出した人です。
その冨永さんに「お前は特攻のくせに命が惜しいのか。
すぐに出撃せい」と叱りつけられた彼は、別の飛行機に乗って
「田中軍曹、ただ今から 自殺攻撃に出発します」

こうした犠牲はなにのためだったのか。
私たちはこの戦いが「聖戦」であり、欧米諸国からアジアを
解放するためのもの、東洋 平和のためのものと
教えられました。
戦後になって私たちは、それがまったくの嘘だったことを知りました。

 (以上は戦場体験放映保存の会の記録より一部を抜粋)

尾形さんは戦後になって再び勉強をするなかでマルクス主義経済学
そして平和学へと関心が広がってゆきます。
それは戦前の教育がたいへん偏っていたことの反省から、なにも
しらないこどもや若者に幅広いものの見方ができるようになって
ほしいとの願いが込められていることがお話からかんじられました。

        

hanaはのんきなくらしができてよかった、とおもいました。
せんそうになったときに家にあった金属類、馬や犬、猫まで
供出させられた悲しい話がたくさんありました。
兵隊の暖を取る毛皮にするためでしょうか。

それも圧倒的に物資の差が、軍事力の差があることを認めようと
しないで無謀な作戦を推し進めた軍部の無責任体質がすべての
根源にあると思われます。

65年たってもこういった悲劇から多くを学ぶことなく、世界では
まだおそろしい戦場が広がりつつあります。
教育がひろく平等に行き渡っていないところに戦争は忍び寄る
それは大国アメリカでさえ避けることができないように見えます。

信頼できる情報をまず多くの人が共有すること、つねにそれを
オープンに開示して批判の自由を保証すること、それがもっとも
だいじなことではないでしょうか。

戦場体験放映保存の会の活動にはどなたでも参加することが
できます。
聞き取り、収録のボランティアを募集していますので関心あるかたは
こちらのブログをご覧ください。
author:信愛書店 en=gawa, 11:48
-,
軍事史学会定例研究会
戦場体験放映保存の会では事実を記録する、ということを
主眼に活動していますので、他の団体の講演会などにも
積極的に参加をしながら貴重な当事者のお話をお聞きする
ことを呼びかけています。
今回は次の会合のお知らせがありましたのでご紹介をいたします。

主催の軍事史学会のHPはこちらです。

        

■軍事史学会定例研究会のお知らせです。
今回はレイテ戦経験者の講演となっています。

  1.日時:平成22年4月17日(土)10:00~12:00
  2.場所:文京シビックセンター 3F会議室
  (JR「水道橋駅」東口:徒歩8分。都営三田線・大江戸線
  「春日駅」徒歩3分。東京メトロ南北線・丸の内線
  「後楽園駅」:徒歩3分。ホールの3階)Tel03-5803-1100

3.講師:長嶺 秀雄 氏(元防衛大学校教授・元陸軍少佐・レイテ戦経験者)
レイテ戦における長嶺大隊長の活動は、大岡昇平作品「レイテ戦記」
を参照
4.演題:「レイテ決戦を巡る諸問題」
 ※当日は関連史料の小展示も予定しています。
 (小展示は9:30頃より開始予定)
5.会費:会員500円、非会員1000円
非会員の方も参加できますので、ご興味をお持ちのお知り合いが 
いらっしゃいましたらお誘い合わせの上、ご参加下さい。
会員・非会員ともに事前申し込みは不要です。
会場に直接お越し下さい。
 
連絡先:軍事史学会
 〒162-0041東京都新宿区早稲田鶴巻町544-6錦正社内
 (TEL03-5261-2891 FAX03-5261-2892)
author:信愛書店 en=gawa, 12:32
-,
少年兵兄弟の無念★猪熊さんの手記
「予科練・別れ」  

私の二歳上の兄房蔵は昭和十八年十二月、海軍甲種飛行予科練習生
(予科練)第十三期生として三重海軍航空隊に入隊しました。
兄は、送別会で「元寇」を歌いました。蒙古軍襲来に民族挙げて
戦おうという歌で、「国難ここにみる」と歌った兄の歌声は、今でも
私の耳に残っています。

当時の少年たちは、米軍の反攻、戦局の悪化に今戦場に行かなければ
日本は大変なことになる。家族のため、故郷のため、祖国のため、自分の
生涯を捧げようと真剣に考え、親たちの反対を押し切って少年兵を
志願したのでした。
兄が予科練を志願した四ヶ月後、私は陸軍の特別幹部候補生
(特幹)を志願しました。
昭和十九年八月二十七日のことです。水戸の陸軍航空通信学校に、
突然、父と兄が面会にきました。十九年三月、三重航空隊から転隊した
土浦航空隊で「回天」搭乗員を志願した兄は、「回天」基地への移動を
前にして、たまたま、土浦を訪れた父と外出を許されました。
私も特別外出を許され、営外の食堂で親子三人、語り合いました。
あまりの嬉しさに時のたつのを忘れました。やがて兄は財布を取り出し、
有り金全部はたいて、「おいこれ使えよ」と渡されたお札が、当時のお金で
五円ありました。言外に別れを告げたのでしょう。

営門の前で、別れの時がきました。
海軍飛行予科練習生海軍飛行兵長の兄房蔵は、肘を前に出す海軍の
敬礼で、陸軍特別幹部候補生陸軍1等兵の私は肘を横に張る陸軍の
敬礼で、お互いを見つめ別れを惜しみました。
兄が十八歳五ヶ月。弟が十五歳十一ヶ月でした。

つづく

++++++++++++

この手記を書かれた猪熊さんの文章はブログで全文を読むことが
できます。

少年兵兄弟の無念

   =15歳で少年兵として陸軍特別幹部候補生に志願した私が、
      戦後65年経った今、その無念を綴ります。

 
     

1944年(昭和19年)旧制中学3年の時に15歳で陸軍特別幹部候補生に
志願した猪熊得郎さんは戦場体験放映保存の会などでも熱心に
ご自分の体験を語り、依頼された講演会でもつぎのように話して
おられます。

+++++++++++++++++++++++++

『わだつみ会と少年兵』(『わだつみ通信』2008年48号より)

わだつみのこえ記念館設立一周年記念「わだつみ会 12・1不戦の集い
二〇〇七年」が十二月一日、文京区民センターで開かれ、リサ・モリモト
監督ドキュメンタリー映画「TOKKO」の上映とともに、私は、
「少年兵の無念―生きているうちに語り継ぎたい」という演題で講演した。

講演で私は、大要次のような話をした。
『 予科練、特幹、少年飛行兵、海軍特別年少兵など、四十二万人以上が、
十四歳から十九歳で志願した少年兵として十五年戦争に参加した。

少年たちは当時の社会体制、軍国主義一色の社会風潮、幼い頃からの
軍国主義教育、権力に迎合した新聞・ラジオ・雑誌・映画などのマスコミに
よる戦争賛美の宣伝煽動の影響のもと、「天皇陛下のため」「東洋平和の
ため」「家族の幸せのため」「祖国のため」と心から信じ、親や家族の反対を
押し切って戦場に赴いた。そして多くの少年兵が戦場の露と消えた。

しかも、その戦争は加害者の立場であった。
これほど口惜しく無念なことはない。
これを「少年兵の無念」という。当時の少年たちは、かけがえのない青春を、
精一杯、あの戦争に捧げた。生涯の中で、最も美しく輝くたった一度の
青春が、侵略のための青春だった。

そして、少年兵を戦場に駆り出した者たちの後継者たちは、未だに
侵略戦争を真剣に反省しないばかりか、再び若者たちに銃をとらせようと
している。これほどの「無念」があるだろうか。

若者を再び戦場に送り出してはならない。若者たちの青春が、平和のための
美しく豊かな青春であることを心から願っている。』



事実をありのままに語る、判断するのは聞いた人、受け取った
側にまかせたい。
それが猪熊さんたちのお考えです。
ブログにはその活動についてつぎのように書かれています。

少年兵兄弟の無念−1



私は、戦争体験、戦場体験を語り継ぐいくつかの運動に参加していますが、
戦争体験の中でも、戦場体験は今消え去ろうとしています。敗戦の時、
入隊して間もない初年兵だった兵士が82歳です。
志願した少年兵の一番年少者でも78歳です。しかも元兵士たちは
なかなか口を開きません。語らないまま亡くなっています。
忌まわしく、思い出したくもない体験を語りたくないのは当然でしょう。

戦争とは、国家が他国家との間に行う武力闘争であり、どのような
大義名分をつけようとも、まさに国と国との殺し合いにほかなりません。
戦場体験とは、人と人とが殺し合う戦争に、軍事組織の一員として
動員された兵士・軍属などの、戦地に於ける体験であります。
軍隊では戦闘が目前になくとも、日常不断に人殺しのための訓練が
行われていました。日常生活そのものが精強な兵士となるためのものであり、
戦場体験とは、戦闘に参加したかどうかを問うものではありません。
兵士たちが優秀な兵士となることは、敵を殺すことに勇猛な兵士となる
ことでありました。
それを拒否するには「脱走」か「自殺」以外に道はありませんでした。

戦地に於ける兵士たちの日常は、武力闘争の歯車の一つとして、
自分自身の人間性を作り替えることとの葛藤の日々だであったとも
言えます。内地でのいわゆる「戦争体験」も極めて厳しく過酷なものでしたが
「戦場体験」の質的違いはここにあるのです。

私たちは元兵士たちに説得します。あの悲惨な戦争をくりかえさないために
口を開こう。語り継ごう。語ることの出来ない戦死した戦友のためにも、
悲しみ、怒り、口惜しさ、無念の思いを語ろうではないか。
戦場体験を後世に語り継ぐための私たちの呼びかけの言葉です。
「語らずに死ねるか」、「生きているうちに語ろう」、「語らないうちに
死ぬことは止めよう」

私は一九二八年(昭和三)九月生まれで現在79歳です。
本籍は東京中央区日本橋浜町三丁目、小学生時代は牛込区(現新宿区)
市ヶ谷富久町で育ちました。新宿の伊勢丹裏から市ヶ谷の士官学校、
九段の靖国神社に通じるじる当時は6メートル幅の靖国通りに面して
私の家がありました。

子供の頃は、毎日のように戸山が原の射撃場や、代々木の練兵場に
行き来する軍装した兵隊たちの行進を眺め、勇ましい軍歌を聞きながら
育ったのでした。
休みの日には、斜め前のカフエに、沢山の兵隊がたむろしていました。

私は一九四四年(昭和十九年)十五歳で少年兵を志願し、一九四七年
(昭和二二)十二月にシベリアでの抑留生活を終え復員したのは十九歳でした。
十六歳の初めての戦闘体験で、アメリカ軍戦闘機の攻撃で壕の入口に
爆弾を落とされ、切れ切れになった同期生の戦友の死体を集めて五体を
揃え、十一名を確認したとき、戦争とは格好良いものではない、まさに
人と人との殺し合いなのだと肝に銘じたのでした。 

旧満州公主嶺飛行場で敗戦のとき、「歩いてでも日本に帰るのだ」と
別れた十七歳の戦友の、とぼとぼと飛行場から消える影を見送ったことも
忘れません。
殺されたのか、飢え死にしたのか、彼は未だに日本に帰っていません。

シベリアの収容所で、夜中にふと起き上がって、「帰れるんだ、
汽車が出る。味噌汁が飲める、お母さん」そう言ってバタッと倒れ、
そのまま亡くなった戦友の声が、今でも耳に残っています。

二歳上の兄は人間魚雷回天特別攻撃隊白龍隊員として沖縄出撃途中、
一九四五年(昭和二〇年)三月、十八歳で戦死しました。
喧嘩をしたことなど一度もない、真面目で、温和しく、芯があり、
家族思いの兄が出撃直前、次の遺詠を残していました。 

身は一つ 千々に砕きて 醜(しこ)千人 殺し殺すも なほあきたらじ   

身体はは一つしかないが、千にも砕いて、アメリカ兵千人を殺すのだ。
それでもなお飽き足らない。  

十八歳の、あの温和しい優男の兄が、こんな歌を残して出撃をしたのでした。
当時の人間魚雷回天特攻隊の搭乗員は、半数以上が予科練(少年兵)
出身で、回天が正確に敵艦をとらえれば、一人の搭乗員、一隻の回天で、
確実に敵艦を沈めることが出来る。戦艦、航空母艦なら四千名のアメリカ兵が
乗っている。巡洋艦なら一千人以上、駆逐艦なら数百人だ。 

回天搭乗員が一人で一千人宛のアメリカ兵を殺せば、家族を、愛する人達を、
そして祖国日本を守ることが出来るのだ、そう真剣に思っていたのでした。 
しかし、旧軍部、厚生労働省の杜撰な記録で、兄の正確な戦没場所も、
戦没日時もいまだに分かっていません。

戦後六十年以上経った今も、私は毎年沖縄を訪れ、兄の足跡を探し求めて
います。少年たちの純真な心を利用し死に追いやった戦争指導者の謝罪を
一度も聞いたことはありません。
私は、私や兄など、当時の少年がどのようにして戦場に赴くようになったのか、
そしてどのような戦場体験をしたのか、そして42万名を超える少年兵について
この機会に語ることと致します。

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おりしも沈黙のファイルともよばれる海軍の『小柳資料』の刊行が
決まったということです。

事実を事実として正確に記録し、精査することが学問の基本であるとしたら
この国の歴史学やら社会学やらとはいったいこれまでなにをして
きたのか、してこなかったのか。
いわゆる保守側だけではない、護憲平和をうたう革新と呼ばれる
政治党派を側面から支えてきた思想家、作家たちも多くの人が
戦史や軍事問題に積極的に関わろうとはしてこなかった。

学問研究者そして事実に密着して報道するべきジャーナリズムの   
怠惰がいまの世相を作り上げてきたのだというべきです。

同時に言わなくてはならないのは、この国のなかでたいがいの
ことは知ることができ、また表現することも自由度がかなり高い。
それはあの先の大戦の時代を大いに反省した結果であるともいえますが
これらの基本的な自由、思想信教そしてたいせつな表現の自由の
ためにいのちを懸けて抵抗したものがまことに少数でありました。
犠牲になったそれらの芸術家や表現者たちの名誉回復に対して
戦後の自由となった国家がじつに冷淡であったことは恥じなくては
なりません。

その国家とはすなわちあなたであり、私なのです。


貴重な猪熊さんの記録を是非読んでいただきたく、ここに一部の
ご紹介をいたしました。
ぜひ書かれた全文を精読していただきたいとおもいます。
学ばなくてはならないことがたくさんあります。
ご本人も一人でも多くのひとに読んでほしい、ということでこころよく
転載を了承してくださったことを書き添えます。  

■戦場体験放映保存の会では戦争体験、戦場体験の貴重な
お話をお聞きして録画・録音の収録を全国で展開しています。
お話を聞かせてくださる方、収録の作業に当たってくださる
ボランティアを募集しています。
詳細は事務局までご連絡ください。

「戦場体験放映保存の会」事務局
〒150-0047 東京都北区滝野川6−82−2
TEL:03-3916-2664(火木土日祝)
FAX:03-3916-2676
e-mail:senjyou@notnet.jp

戦場体験を証言してくださる方のご紹介、ご家族・お知り合いの方の証言映像、
ボランティア協力のお申し出、心よりお 待ちしております。

author:信愛書店 en=gawa, 13:08
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『冬の兵士』上映@wam
「冬の兵士」上映会のお知らせです。
明日の夜7時より、西早稲田の早稲田奉仕園内アバコビルにある
アクティブミュージアム
「女たちの戦争と平和資料館」にて開催。

特別展開催中;

第7回特別展 「証言と沈黙 −加害に向き合う元兵士たち−」

【展示期間】2009年7月4日(土)−2010年6月20日(日)



おびただしい数の残虐な強かんがあった戦場。
支給された「突撃一番」を手に、行列を作って順番待ちをした慰安所。
私たちの父や祖父が体験した戦争は、性暴力 を抜きに語ることができません。
この20年間に集められた、被害女性たちの証言がそれを物語っています。
しかし自らの加害に向き合う日本軍元兵士の証言は わずかしかありません。

彼らはどのように強かんや慰安所を語り、あるいは語らなかったのでしょうか。
飢えと病気が蔓延した無残な戦場からの生還は、「被害者」としての記憶しか
残さなかったのでしょうか。
自らの戦争責任・戦後責任を問わずにきた日本の戦後を、性暴力の
加害を糸口に考えます。

期間中に上映会があります。
wamビデオ;

■ 第3回 3月5日(金)19:00〜21:00 ■□■□■□■□■□

『冬の兵士―良心の告発』(80分・2009年制作) 全編上映

【映像内容】
1971 年、ベトナム帰還兵たちが自らが犯したベトナム人虐殺を証言する
集会を開いた。この集会は「冬の兵士」と呼ばれ、ベトナム戦争終結に世論を
導いた。そして 2008年3月、「冬の兵士」は再び、ワシントンDC郊外で開催
されることになる。約50人の帰還兵がイラク占領の現状と住民殺戮の事実、
帰国後の PTSDや貧困の状況を語り、イラクからの即時撤退を訴える。

【トーク】田保寿一(監督)
1950年生まれ。1991年、テレビ 朝日「ザ・スクープ」のスタッフとして
湾岸戦争終結直後のクウェートを取材。イラク軍による原油流出が原因と
報道された水鳥被害について、実際は米軍の空 爆による石油精製施設
破壊が原因だったことを突き止める。2003年以降はイラクでの取材を続け、
サマワの現状や核施設、反米運動などを取材。2006 年、戦闘取材中に
事故に遭って帰国。現在はフリーランスとして取材・活動を続ける。

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会場; 女たちの戦争と平和資料館 →map
〒169-0051
東京都新宿区西早稲田2-3-18 AVACOビル2F
Tel: (03) 3202 4633
Fax: (03) 3202 4634
E-mail: wam@wam-peace.org
author:信愛書店 en=gawa, 14:21
-,
冬の兵士part2 日本ツアーの記録
・ママー、テレビやってるよ、かっこいいおにいさん♪



・なんだろ・・ニュースかな?



・ふくろがいっぱい・・ひとがはいってるみたい・・??



・ママ・・・hanaこわい・・・

そうなの、この映像はね田保寿一監督の「冬の兵士第2作目」、
2010年1月30日版なのよ。
これから公開される予定の作品を見せていただいたの。

hanaが見て怖かったのは大勢のイラク人たちが殺されて、こどもや
大人たちの遺体が包まれて埋葬されるところでした。
自宅のドアを開けたら、いきなり米兵に撃たれて亡くなった男性、その
家族が落ち着いた声でようすを語ります。
悲しみを通り越して、おだやかな笑みすら浮かべて。

”これがアメリカの民主主義なのです。”

冬の兵士製作委員会では昨年の9月にアダムとリック、二人のアメリカ兵を
お呼びして日本各地で証言集会をおこないました。
アメリカでは退役後も元、をつけずに生涯"マリーンズ(海兵隊員)"という
ふうに呼ぶならわしで、それは本来はたいへんな名誉であり、真の愛国者
として誇りを持って生きる、そのように教育されてきたといわれます。

その誇り高い戦場経験者の若い兵士たちが、自分たちの体験がほんとうは
どういうことだったのか、アメリカの、世界の正義に照らして果たして胸を
張ってひとに語れるような行動だったのか、それを思い返すことすら苦しい
なかをあえて語ってくれるのでした。

冬の兵士part2、これはごくふつうのアメリカの若者が体験した物語です。
そして自分の体験を深く捉えなおしてみればみるほど、じぶんらの
考えが少数派の意見であるようにもみ消されそうになる、そういう
いまのアメリカ社会にたいして警告の声をあげようとしています。

”じぶんの罪をおもうと・・・”
アダムが、そして多くの兵士たちが引き受けなければならない悩みは
じつは全てのアメリカ国民が、なかでも政策決定者たちがより大きな
責任を持つべきではないか、同感です。

同時にまたアメリカの政策を支持するこの国の政府にも大きな責任があると
言わねばなりません、
一刻も早く政策転換することを働きかけなくては、それはじつは私たちの
役割でもあるのだ、という重い課題が残される作品となっています。

      

正式タイトルはこれから決まります。
内容についてもいくらか編集が加わるかもしれません。
岩波版『冬の兵士』に出てくる場面も映像として収録されたり、と
かれらの考えやすがたが立ち現れるような作品となっていました。

9月の日本国内ツアーをした各地でこれから上映が行われる予定です。
詳細が決まり次第にここでもお知らせをいたします。
ぜひご注目ください。
author:信愛書店 en=gawa, 13:23
-,
冬の彩り◇黄  ドキュメンタリー映像
草の実アカデミーの講演会へ参加して来ました。

◎第11回草の実アカデミー講演会

二大侵略国家の反戦運動

〜ドキュメンタリー映画2本上映と監督対談
 

アメリカ「冬の兵士〜良心の告発」(序章上映)
        田保寿一監督
イギリス「ブライアンとその仲間たち〜パーラメントスクエアSW1」

(一部上映)
        早川由美子監督

映画一部上映後 両監督の対談


ブライアンとその仲間たち」の映画は茶房 高円寺書林にて
上映会をしたことがあって、そのときに早川監督にお話をして
いただいたことがありました。

英国でジャーナリズムを学んだ早川さん、”フリーで報道に関わる

仕事をするときには法律または公共性を法的根拠として自分を

守れ”ということを教わった、と。


この作品は2008年に撮影されたものですが、そのごに報道規制が

強まり現在ではこのように市民と警官や機動隊が衝突するようすは

公務員の肖像を撮影禁止、という法が出来たために撮影禁止と

なったということです。

ほかにも生活保護申請の窓口でのようすを撮影したために

逮捕された人がいた、ということもあったそうです。


70%にものぼる市民の声がイラク戦争への反対を表明しているなか

イギリス議会は7時間の討論のあげくに参戦を議決しました。

”そのまえに伝統ある貴族のゲームであるフォックスハンティングを

継続するか廃止するかについては700時間を費やして議論した

経過があったのですよ!”と早川さん。



田保監督によると英国では政府やマスコミがイラクに危険な軍需工場が

ある、と報道した際にその現地へ行ってそれはたんなる民間の工場跡の

ような廃屋であると検証する記事を書いた記者がいたそうです。


事実に即した報道をする記者がいたというのに、そういった声は多くの

読者に届かず、結果的に国を挙げての戦争へと突き進んでいった、

メディアの現場に居た田保監督はそのように情報は作り上げられる

ものだと身をもって実感したと語ります。


草の実アカデミーを主宰する林克明さんは市民の意思、声をどうやって

正当に政治に反映させるかが大きな課題だ、といわれました。


会場から”冬の兵士が国旗(星条旗)をはためかせて反戦運動を

するというすがたにおどろいた”との声がありました。

待ってました!と田保監督。

映像でわかるように、兵士たちの掲げる国旗は逆さになっています。

愛と正義をめざすべきアメリカ国家が危機に瀕している、それを

憂える真の愛国者が”冬の兵士”だからです。


ちからだけで多くのものをうごかすことは可能です。

それは古代の文明・文化の遺跡から私たちが教えられること。

もうひとつ、永遠に続く繁栄というものはない、ということもまた。


地球上の隅々までのさばった人類のゆくえに黄信号が

点滅する現在、のこされた選択は多くないような気がします。

author:信愛書店 en=gawa, 13:08
-,
二大侵略国家の反戦運動 〜ドキュメンタリー映画2本上映と監督対談

■イラクとアフガニスタンを侵略・占領しているアメリカとイギリスの

反戦活動を取材した2作品の上映とそれぞれの監督をお迎えしての
対談があります。

お問い合わせ、ご予約は下記の草の実アカデミーまでお願いいたします。

     *****************

◎第11回草の実アカデミー講演会

二大侵略国家の反戦運動

〜ドキュメンタリー映画2本上映と監督対談
 

アメリカ「冬の兵士〜良心の告発」(序章上映)
        田保寿一監督
イギリス「ブライアンとその仲間たち
     〜パーラメントスクエアSW1」(一部上映)
        早川由美子監督


映画一部上映後 両監督の対談

映画一部上映後 両監督の対談

 

司会 林克明(ジャーナリスト)

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◎第11回草の実アカデミー講演会

映画「冬の兵士」と「ブライアンと仲間たち」監督による対談

日時 2009年12月19日(土)
       13時15分開場 13時30分開会
場所 全水道会館 中会議室
      東京都文京区本郷1ー4ー1
交通 JR総武線水道橋駅東口 徒歩3分
   都営地下鉄三田線水道橋駅A1出口     
   徒歩1分
地図 http://navitokyo.com/03-3816-4196/

資料代 500円(会員無料)

主催・問い合わせ先  草の実アカデミー

FAX 

03-3916-2676

E-mail

 kusanomi@notonet.jp

ブログ

http://kusanomi.cocolog-nifty.com/blog/


 
 2009年に制作された二つのドキュメンタリー映画が注目を浴びている。

イラクとアフガニスタンを侵略・占領しているアメリカとイギリスの

反戦活動を取材した作品だ。この二作品で取り上げられている人びとは、

米英のマスコミからは無視されている。日本で何十回も上映会や講演会が

開かれてきたが、同時上映(一部分を上映)と監督同士による対談は

初めてのことだ。

 

映画「冬の兵士〜良心の告発」

 田保寿一監督

2008年3月13日から4日間に渡り、ワシントンDC近郊の全米労働大学で

イラク帰還兵50名による証言集会が開かれ、軍のイラクからの即時撤退、

現役と退役軍人への補償、イラク国民への賠償などを求めた。

 1971年ベトナム戦争時に帰還兵たちがベトナムで行われている残虐行為を

告発、軍の撤退を要求した証言集会の名にならい「ウインター・ソルジャー」

名付けられたこの証言集会を中心に取材した作品。

公開された作品にはない序章を上映予定)  

http://wintersoldier.web.fc2.com/

 

映画「ブライアンと仲間たち〜パーラメントスクエアSW1

早川由美子監督

 イギリス国会議事堂の向かい側の広場・パーラメントスクエアで、

ブライアン・ホウ(1949年生まれのイギリス人)は2001年6月2日、

英米政府のテロ撲滅戦争への抗議を始めた。以降8年以上、家にも帰らず、

1日も休まず抗議活動を続けている。

 彼とそのサポーター達を1年半に渡って追ったドキュメンタリー。

 表現の自由、デモ活動の権利を奪おうとする政府や警察に、たぐいまれな

勇気とユーモアーで立ち向かう彼らを描いている。

http://www.brianandco.co.uk/jp_index.htm

 

上映後 に対談

司会 林克明(ジャーナリスト)


 

主催・問い合わせ先  草の実アカデミー

FAX 

03-3916-2676

e-mail;

 kusanomi@notonet.jp



author:信愛書店 en=gawa, 13:09
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